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lost me in the rabbit

兎崎しのぶの脳内メモ日記。

溺れるナイフの呪いにかかって

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 観に行ったのは公開日翌日の11月6日のことで、もう3週間近くも経ってしまったけれど感想を書こうと思い立ち、自分の脳内メモ用としてブログを立ち上げてみた。一度しか観ていないので曖昧なところ、観に行った方にとっては違和感をおぼえるところもあると思うが、そこは容赦してもらいたい。

 

〇失われたものとは

 『溺れるナイフ』という映画を観たあとに私が感じたのは、喪失感だった。何かとても大事でキラキラしたものが失われて、それはきっと自分のティーンエイジにも存在したものだったのではないかと直感的に思った。

 "喪失"

と書くと、映画を観た人には夏芽が火祭りの夜に遭ってしまった事件を思い起こすだろう。だけど、原作を読んでいないので、この描写が原作準拠なのか、それとも山戸監督の意図なのか推測の域を出ないが、強姦"未遂"に終わっている。少なくとも映像からはそう読み取れる。

 夏芽が失ったものはなんだったのか。

 それは肉体的な処女ではない。

 

「わたしだって綺麗なまま生きたかった!」

 

 東京育ちで、ティーンモデルで、女の子の憧れの的で、引っ越してきた田舎の中学ではお姫さま。誰もが羨むような地位から転落し、むしろ蔑まれ忌み嫌われる存在へと夏芽を変えたのが、あの事件だった。夏芽は事件が公表されたことで、社会に犯されたのだ。いわゆるセカンドレイプ。これが引き起こされたことで、夏芽は「見知らぬ男に犯され処女を奪われた汚れた存在」として世間から見られることになる。この認識と、実際は"未遂"であった事件の真相のズレが、夏芽の叫びに繋がっている。彼女が失ったのは性愛の肉体的な処女ではなく、精神の処女性なのだ。

 世間からの認識と事件の真相が一致していれば、仕方がないと、事実なんだから仕方ないと諦めることもできただろう。でも違う。本当は純潔のままなんだ。違うのに、違うのに、綺麗な生き物として見られなくなってしまった! このことは、モデルや女優という、容姿からその人間性、ときには人生まで評価の対象となるような仕事をしてきた夏芽からすれば、身体の純潔を失うよりも絶望的なことだったと思う。更に、その仕事で成功して面白く生きてコウに勝ちたいという望みまで絶たれてしまった。そして、「神さん」という存在だったコウもそんな夏芽を助けることができず、彼女は自分の神様が幻想だったと思い知る。それが夏芽の"喪失"であり、失われた青春のきらめきのひとつなのだ。

 ただ、それでも尚、小松菜奈演じる夏芽は美しいままだった。むしろ、絶望を知ってからの方が、山口百恵を思わせる彼女の暗い目の輝きが、舟の上で地団駄を踏む姿が、海水にびしょ濡れで泣く姿が、どうしようもなく綺麗だった。私はそんな彼女を見ながら、19歳の小松菜奈がフィルムに切り取られていることの尊さと、彼女が映画デビュー作『渇き。』で演じた藤島加奈子という少女の影を見ずにはいられなかった。

 

 一方、コウもこの事件で "喪失" を経験する。失ったもの。それは「全能感」という言葉に集約されるだろう。海も山も夏芽も自分のもので、神様の棲む海で遊ぶのも自分には許されていると豪語していた彼に、「自分のもの」であるはずの夏芽を守ることはできなかった。だから、夏芽にとって神様でなくなったとき、コウ自身も自分が神様でないことに気付いてしまった。無力な少年でしかない自分に気付いたかのように、小さく丸めた白い装束の背中が印象的だった。

 

〇ハンドメイドホーム

 『溺れるナイフ』では、挿入歌として大森靖子の「絶対彼女」と「ハンドメイドホーム」が使用された。歌っているのは堀越千史。可愛い声質の堀越さんがウィスパーボイス気味の歌い方で「絶対彼女」と「ハンドメイドホーム」を歌うと、映画に素朴な甘さが加わってとても良かった。

 

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 「絶対彼女」は冒頭で、ティーンモデルとして撮影される夏芽のバックで流れていた。この撮影シーンは一瞬だったが、「縷縷夢兎」の東佳苗さんが携わったもの。映画の予告PVにも使用されていた。このシーンは夏芽という少女を、ミスiDの少女たちや、縷縷夢兎が衣装を手がけるアイドルたちと同様の存在であると印象付けていると感じた。たぶん、それがいちばん"いま"っぽいから。女の子が女の子に憧れるという構図が、現在いちばん当てはまるのがミスiDやアイドル文化だろう。夏芽をその枠組みに加えることで、映画を見る女の子たちは夏芽へ素直に憧れることができる。そして、憧れられるべき「女の子」として認識される。その効果を後押しするのが、縷縷夢兎×大森靖子、「絶対女の子絶対女の子がいいな」と繰り返し流れる歌詞なのだと感じた。

 

 「ハンドメイドホーム」は、事件の次の年、夏芽が高校一年生になったときに使われる。大友との帰り道、椿の下で蜜を吸って笑いあっていると、そこへコウが通りかかる。大きな星の引力に導かれるように、夏芽はコウを追いかけていく。コウは逃げる。夏芽は追いかける。逃げる、追いかける、追いつきそうになる、また逃げられる。そんなシーンで流れ出す、フルコーラスの「ハンドメイドホーム」。

 

「大好きな悪魔と引き裂かれ

 王子様とキスをした」

 

「惰性のにばん君がいちばん

 嫌いな言葉をわたし歌いたい

 気持ちをおさえてできるだけ

 たのしくするから嫌わないで」

 

「毎日もうどうかしそうで

 でもアイドルだって笑ってるし

 ちょっとだけどうにかしようね」

(歌詞より抜粋)

 

 大好きな悪魔はコウで、王子様は大友かな? という思いつきが、映画を見ながら止まらなくなって苦しくなった。そして明るい曲調。山戸結希監督は「ティーンエイジャーのときって悲しい時に悲しい曲を聴くとは限らない。きっと今の十代の女の子なら大森靖子さんとかを聴くんだろうな」という意図でこの曲を選んだらしいが、歌詞を見るとつくづく夏芽の曲だと感じる。わたしの言語能力ではこの曲を使ったことに対しては「エモい」としか言えないけれど、上で抜粋した歌詞と夏芽の絶望を合わせてもらえれば、観劇した人には通じるものがあると思う。この曲が流れたあと、舟の上で夏芽がコウに叫ぶシーンで、「どうして出会ったりしたの!?」というセリフが、より一層苦しくなる。

 

〇『溺れるナイフ』は恋愛映画か

 結局、コウと夏芽の関係は"恋愛"だったのだろうか。

 写真集を作るために写真を撮られながら、夏芽は「コウちゃんに負けたくない」と呟く。

 綺麗な顔だからと近付いたけど面白くなかったとコウに言われた夏芽は、「わたしもっと面白く生きて見せるから!」と言う。

 二度目の火祭りの日、コウと夏芽の秘密の場所で男が殺される。コウはカナの話を聞いて、「殺せっちゅうことやな」と言う。夏芽は「そいつを早く殺して!」と叫ぶ。このシーンは、コウが夏芽を助けに来たというよりは、二人の呪いの根源を二人で殺す儀式のように見えた。だって、夏芽は人間の女神で、コウはその女神の神様だったのだ。そんな二人をつまらない人間にしてしまった男を殺すことは、儀式としか思えない。そして、二人の信仰者であるカナによって秘密は外の世界に隠される。夏芽もコウもカナも同じ人間として扱っていた大友だけが、何も知らない。

 

 『ガラスの仮面』で月影千草は、師の尾崎一蓮と魂が結ばれていたと語る。そして、「結婚」は本来「結魂」と書くべきではないかと言う。コウと夏芽は恋人ではなく、魂が結ばれている存在だったのではないだろうか。美しい容姿を持ち、ライバルで、神様で、共犯者。そして二人は同じ罪を抱え、別の場所で生きていくことを選んだ。

 容姿が美しい二人が、美しい容姿から生まれた地獄や呪いに悩んで、それでも生きていく。そんな姿がこの映画を好きになった理由だと感じる。ラストのバイクのシーンでトンネルを抜けるとき、真っ白なふたりに相対するように赤い花びらいちまいが、ふたりのうしろへ飛んでいった。あれこそが失われた青春なのかもしれないと思ったら、涙が出てきたのを覚えている。

 

 小松菜奈ちゃんが大好きなのだが、彼女が生み出す呪いをもっと観たいと感じた。

 

2016/11/24

 

 writed by 兎崎しのぶ